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日本人医師ブータンで活動するーその12ー

ブータンで内視鏡医として活躍された阪口昭医師の奮闘記です。今回はその12回目これが最終回となります。ブータンで思い残したことは?退職の決意やその後は?総括となります。


12)退職

私の契約は2年。いろいろあったが過ぎてしまえばあっという間。予定では、間に一回は帰国して、必要な物品をそろえようと思っていたが、想定外のコロナ禍が重なって、連続の2年間となった。

契約完了前には、延長すべきかどうか迷った。まだすべき事があるのではないか。いろいろと頭の中に浮かんできた。首相からも契約の延長をしないかとの言葉を頂いた。

しかし最終的には、私なりにやりきったという気持ちの方が強く、退職することにした。

大腸内視鏡の前処置、物品購入の迅速化、放射線遮蔽の内視鏡室、内視鏡治療用の高周波装置、拡大内視鏡、超音波内視鏡、内科研修医の内視鏡研修の必修化など、これらの課題は、今後JDWNR病院として取り組んでいただけたらと思う。

今は、現場にいなくても、SNSで時間を共有できる。和歌山市の自宅に居て、Dr. Sonu から内視鏡症例について意見を求められたり、看護師からはJDWNR病院内視鏡室の状況が伝わってくる。HIGAN の会議*でも、同じ会場にいるように症例検討ができる。同じテーブルは囲めなくても、日本に居て協力しあう事は容易である。

2年間という期間は私にとってはちょうどいい期間であったのかもしれない。大きな病気もせず仕事ができたこと、新しい内視鏡が導入された時期に居合わせた事、コロナ禍でも帰らずに仕事を続けられたこと、HIGAN と一緒に仕事ができたことなど、振り返ってみれば幸運にも恵まれていた。

この2年間で学んだ事は、第一に、心の中でやろうと思い続ければ、実現できるのだなあと言うこと。約15年前にブータンで仕事をしたいと思った事が実現できたとき、素直にそう思った。第二に、国は違っても、人は余り変わらないなあということ。日本の生活は便利で選択肢がたくさんあるのに比べて、ブータンでは不便な事が多いし、物品の選択も限られる。しかし、患者さんを前にした時のチームの気持ちは、日本でもブータンでも同じことだった。第三に、異国で本当に仕事ができるのかと大変心配したが、大きな失敗も無く(と信じているのだが)仕事ができたこと。余りに心配して完璧を目指すよりは、なんとかなるだろうと生きる方が正解のような気がする。

いずれも当たり前の事かもしれないし、この年で今頃というところもありますが、実際に我が身で感じ身に沁みて学んだという気がする。

これからは、まだ臨床医を続けていくつもりでいるが、もう治療内視鏡は引退しようと思っている。退職前の頃、これが人生最後の治療かと思いながら行っていた。最後の患者さんは20代女性の食道静脈瘤の出血で、原因はアルコールであった。今のブータンの医療状況と私の2年間を象徴しているように思えた。

帰国後、HIGAN のメンバーに、また大分大学の環境・予防医学講座の客員研究員に加えていただいた。2年間の経験が、これからの活動に少しでも役に立てば幸いである。

最後に、準備の時から帰国するまで、ほんとうに多くの人にお世話になりました。この場をかりて感謝いたします。(完)


*編集注:NPO法人HIGAN は九州大学アジア遠隔医療開発センターの協力のもと、ブータンー日本間でインターネット会議による症例検討会を行っています。

写真上段左:内科の先生方が送別会を開いてくれました。

写真上段中:約2年間お世話になった家。木造の伝統的建築です。

写真上段右:大家さんの犬クチュは毎日我が家にやって来た。

写真下段左:JDWNR 病院から頂いた仏画。病院のシンボルの薬師如来が描かれています。今私の部屋の壁にかかっています。

写真下段中:民族衣装の土産品。ゴ;男性用(右)、キラ;女性用(左)

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