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押味和夫先生インタビュー(名医をめざしてーその1)

今回は順天堂大学、東京女子医科大学血液内科の教授として、また退官後も釧路労災病院血液内科にて臨床医、研究者としてご活躍の押味和夫先生のお話を伺います。

なお押味先生には後程ピロリ菌とマルトリンパ腫の関与についてビデオ講義をしていただく予定にしています。

Q; はじめに先生の医師、医学生達へのメッセージをお願いします。

Boys and girls, be ambitious.

Go to the last frontiers. There, your potential is infinite.

Life should be an adventure.

 クラーク博士を真似て、北の大地から若者へのメッセージです。そしてもう1つ、「よく遊び、よく学べ」、これも好きな言葉です。自分がたどった道を紹介しながら、何故こういう言葉を発信したいのかを述べたいと思います。

Q; まず先生の医学部入学前の学生時代のお話を簡単に伺わせてください。

私は、福島の田舎で育ち、仙台の中学・高校で学び、このまま高校を卒業するだけなら自分は一体高校で何をしていたんだ、と高2の秋になって疑問が湧きました。そこで立候補したのが応援団長。でかい体で声もでかく、応援団長にぴったりでした。高3の秋まで活動したので、受験に間に合うはずがありません。でもこのとき思ったのです。20数名の団員の心をまとめるのは大変だ、リーダーになるのは大変だと。

Q;医学部をその後目指された動機は?

話は少し長くなりますが、昔、父は福島の田舎で開業していまして、伯父は東北大学抗酸菌病研究所の病理にいました。親戚には医者が多く、私には将来医者になることは当然のことで、あまり疑問を持ちませんでした。

中学1年の頃でしたが、東北大の伯父は、同僚でやはり抗酸菌病研究所の教授をしておられた佐藤春郎先生の研究室へ、私を連れて行きました。佐藤教授は研究の最中でしたが、突然ラット(だと思いますが)の腹部に、火であぶって伸ばし先をとがらせた細いパスツールピペットを突き刺しました。中から白っぽいドロッとした液を取り出し、私に顕微鏡で見せてくれました。そこにはきらきらと輝いた丸いものが、かすかにいくつも動いていました。これが吉田肉腫という癌細胞とのことでした。戦時中、佐藤先生と伯父が長崎から仙台まで、空襲をくぐり抜けて運び、その後も脈々と継体し続けてきた吉田肉腫でした。

このできごとのせいか、私は医者になるなら癌をやりたいと思うようになりました。癌は怖い病気だという印象が植えつけられていたことも動機だったように思います。

Q;東京大学医学部の学生時代には、どんな医者になろうと思われましたか?

父が指導を受けていた元東北大学学長、当時のがん研病院院長の黒川利雄先生に言われました。「押味君、英語を勉強しなさい。アメリカ医学はあと100年続くよ」。50年近く前のことです。すでにアメリカ医学が主流でしたが、世界の医学教育を視察してこられた先生の目は確かでした。

大学を出て研究したって、自分の能力ではろくな研究者にはなれない。それより出来るだけ多くの患者を助けたい、それには一流の臨床医にならねばと思っていました。

Q;そのためには具体的にどう行動されたんでしょうか?

卒後2年間の米国での内科研修を志願しました。1972年7月1日から、ニュージャージー州ニューアークのNew Jersey College of Medicine and Dentistryでインターンの研修を始めました。ニューアークの町は、米国で最初に黒人暴動が起こった物騒な町で、ダウンタウンでさえ瓦礫の山でした。今では随分きれいで安全になりましたが。

Q;臨床をされるということは当然英語を話す必要があると思いますが、どのように勉強されましたか?

当時ろくな視聴覚教材はなく、医師用の米国留学試験ECFMGの前にあわててテープレコーダーを回し英語を聞き、合格後少しだけ米国人の家庭教師につき、まともな準備もしないで米国へ渡りました。研修が始まる数日前に、手続きのために病院の事務室へ行きました。ところが、係りの人が話す英語がまったく分からないのです。向こうもびっくりして、通訳を呼びました。通訳といっても日本人の整形外科医T先生です。その後ずっとT先生ご夫妻にはお世話になりっぱなしでした。アパートの世話から、日常の生活の知恵まで、すべてお世話になりました。

Q; 始まった研修医生活はいかがだったでしょうか?

インターン開始早々は選択コースでしたので直接患者を診ることはありませんでしたが、2か月目にCCU配属になりました。心配していた通り、入院してくる患者の訴えがどうにも理解できないのです。患者も何とか医者に分かってもらおうと必死なのですが、それでもだめです。辛うじて分かったとしても、心電図も読めませんし、不整脈の薬なんて分かるはずがありません。ベッド横の回診では、数人のインターンが教授を囲んで教授の質問に順番に答えなければいけません。ところが質問が理解できないのです。理解できたとしても、答えを英語で考えているうちに教授の質問は次のインターンに移ってしまうのです。落ちこぼれでした。あとで知ったのですが、米国の医学生は最終学年(4年生)になると病棟でインターンと同じように患者を受け持ち、当直までするのです。この1年の実習で日本の医学生と大きな差がついてしまいます。

 こんなこともありました。ある日、徐脈のお婆さんをCCUに入院させた翌朝の回診で、教授に「君は徐脈の原因は何だと思うか、眼底を見たのか?」とすごい剣幕で怒られました。脳出血で脳圧が亢進していて徐脈を起こしていたのです(当時はまだCTがない時代でした)。

 また、内科病棟の当直のとき、患者が出血しているという看護婦からの電話で起こされました。私には、The patient is bleeding と聞こえました。そこであわてて病室に駆けつけますと、呼吸をしていませんし、脈も触れません。患者は死んでいます。どこにも出血した跡は確認できません。そこで看護婦に、この患者は死んでるよ、出血はしてない、と言いました。すると看護婦は、自分は出血しているとは言ってない、The patient ceased breathing と言ったのだと。似たような間違いはいくつも起こりました。

「ヘイdoc」と患者はドクターを呼びますが、自分にはどうしても dog に聞こえるのです。犬みたいに動き回って働いていますので、つい情けなく思いました。3日に1度の当直は、ほとんど眠れませんでした。

インターン開始後2-3か月してすっかりノイローゼになり、カミサンに「荷物まとめてこっそり日本へ帰ろうか」とつぶやきました。カミサン曰く、「何言ってんのよ、あんなに大勢の家族、親戚、友人に見送られて羽田を発ったのに、もうこそこそ帰るとは!」。以来カミサンには頭が上がらなくなりました。辛うじて持ちこたえ1年近くが経ち、最初に指導を受けた教授から、随分良くなったね、と言われたときはうれしかったです。

続きます。

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